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97 故郷の文化ー繭の花つくり 村上久三郎

2019/06/15 (Sat) 22:46:27

写真は、私が繭の花づくりを習っているときの写真です。花びらを作り、次に、おしべとめしべを作ります。
色の調和が大事で、写真では、あまり満足しません。
 花びらをいくつか作り、枝と葉を作り、バランスよくします。最終的に花器を選びます。全体をみて「素晴らしいなぁ」と思うようなものを作ると、一式、5万円くらいかな。私は売ることを目的にしていませんが。
 私は時々、池坊の本を読みます。繭の花は奥が深いです。
 自然の花とそっくりに作る必要はないです。
横山大観は「富士を描く人は無数いるが、みな、富士とそっくりに描こうとするからダメなのだ」と言いました。ですから、横山大観の絵を見ています。日本画と繭の花の複合に芸術があるような気がします。
 私は40年前から、「消えた故郷の文化の絵」を描き、同時に、文化品を作り、どうにか私設博物館のようなものができるメドが出てきました。掛け軸つくりとアクリル箱作りもマスターしました。後者は繭の花などを入れる箱です。

96  故郷の文化ー歌謡曲 村上久三郎

2019/06/12 (Wed) 22:34:31

 戦後まで、故郷のお寺に「●●劇団」がきて、演劇や歌謡曲を歌った。生家がお寺の近くだったので、私はよく見た。また、たくさんの歌を覚えた。
 5歳くらいのとき、「男の純情」を覚えた。この歌に「所詮 おとこの行く みちーは・・・」がある。ところが、「所詮」という意味が分からず、「朝鮮」と覚えた。
 昭和26年に「落ち葉時雨」が出てきた。あるおじさんが、小学生の私に歌い方を教えてくれた。昭和28年のこと。今でも時々歌う。
 霧島昇と遠藤実は、私の故郷と関係があるが、詳細は書かない。遠藤実の「高校3年生」は「ガード下の靴磨き」を参考にしてできたようであるが、
「ガード下は・・」は宮城まりこの歌で、悲しくなる。
「岸壁の母」も悲しくなる。二葉百合子の前に、ある女性(名前忘れました)が歌った歌であるが、その人が上手のように思う。悲しい歌である。
 盲目の「ごぜさん」がお寺で、会津の「剣舞」を詩吟と合わせて踊ったが、素晴らしく、思い出を絵に描いた。その後、藤圭子が出てきたが、「ごぜさん」を思いだし、何となく影を感じた。
 米国では台湾友人が、蘇州夜曲を歌っていた。
 最近は、小桜舞子が「恋する城下町」で角館を歌っていたが、もう41歳になった。茅ケ崎のご出身である。
 「木綿のハンカチーフ」は春日部出身の「太田裕美」が歌っていたが、あれはアメリカの思想である。
カリフォルニアの、おばあさんと息子の物語で、糸車を回す老婆が、息子に「東(多分、東海岸の大学)へ行っても、私を忘れないでね」というのだが、日本では「恋人関係」になっている。太田裕美の歌う「東へ・・・」は野田線で柏へ行ってしまう。「糸車」と「木綿のハンカチーフ」がリンクする。
 私は糸車を作り、数台ある。糸を結うて、木綿のハンカチーフを織りたいが、まだできていない。
 歌手には、子供の時の家庭環境で、「ある影」を負う方が結構多い。「うまくやってください」と願うことだね。ということで、私は短歌を作った。多少、少女ぽいのは、幼馴染の影響でしょう。この歌も「早春歌」に入ります。


振袖の ふりつけ よかれ 歌姫よ
   とわに かくあれ 願うがごとくに


「柳津集会」のご案内 - 伊達 藤五郎

2019/06/12 (Wed) 19:03:59

会員の皆様、8月に「柳津集会」を開きます。

柳津町の花ホテルにて開催される星先生の講演会便乗て、

講演会参加並びに懇親会に参加し、史跡巡行を行います。

詳細は会員専用掲示板にて確認してください。

95 故郷の文化ーむしろ織 村上久三郎

2019/06/09 (Sun) 20:27:24

 私の生家の台所です。ガラス戸の向こうが「茶の間」です。途中まで織ったムシロです。
経糸の向こうに「てん」という動物のはく製がありますが、100年前のものです。今は法律で、捕獲が禁止されています。
左に木の火鉢がありますが、多分、日本で最大と思います。5、6人いないと持てません。
 村上城下町の人がきて、私がムシロを織っているのを見て驚きます。「ムシロを織る心を知りたい」らしいが、私は先祖を思い出しているだけです。
 祖母は慶応3年の生まれ。祖母の生家まで徒歩5分。その途中に、渋沢栄一一族の貞次郎さんが、養蚕具「エビラ」を編んでいました。
貞次郎は、世界遺産・高山社の養蚕の教授でした。貞次郎さんの息子が、正式に、私の母の生家の分家となり、苗字が斎藤となりました。
 貞次郎さんの苗字は「設楽(したら)」です。
明治43年、貞次郎が他界。村人は、彼を惜しんで山から、54人で、墓石を「えんやこら」運んできました。その石碑は生家の隣のお寺の墓地にあります。ところが、村人は「設楽」を読めませんし、書けません。石碑に「説薬貞次郎」と刻んであります。みなさんは、なんと読みますか。
 貞次郎さんの息子の長男、つまり、貞次郎のお孫さんが、村上城下町に「旭電工」という会社を設立しました。
 ムシロを織りつつ我が生家の歴史ロマンを感じています。

【追記】同じ写真をLINKEDINにも投稿しましたが、すでに、1日で、240名の方が見ました。数字が、どこまで行くかですね。2日後に346名になりました。
 絵を描いたりしているので、時間がないですが、時間があれば、「ムシロ織り機」を作り、定評ある博物館に寄付したいと思っています。
 3日後、434人となりました。4日後477名。5日後522。閲覧者の数そのものは意味がないが、まずはしばらく見るつもりです。

94 故郷の文化ー野イチゴ 村上久三郎

2019/06/08 (Sat) 21:30:48

これは「野イチゴ」です。
畑に植え「野イチゴ狩り」で観光の目玉にしたいですが、夢に終わりそうです。
しかし、こんなことをしていると、「おらぁ。しあわせだなぁ」と先祖に報告したくなります。7月には帰省し、祖母の生家の庭の雑草取りをしながら報告します。

93 故郷の文化ー桑の実 村上久三郎

2019/06/08 (Sat) 21:05:50

「♪ こかごに つんだは まぼろしかー」。山田耕作の「赤とんぼ」です。

 写真は故郷の桑の実です。
熟すと青く黒くなり、なかなかおいしいです。ジュースにすることもできます。腹いっぱい食べても大丈夫です。
 こんなことをしていると、世のことを忘れ、ファンタジーの世界に浸ることができます。「しあわせだなぁ」の世界です。

ザ・戊辰研マガジン2019年(令和元年)6月号を発刊しました - 山本覚馬 URL

2019/06/07 (Fri) 00:30:08

戊辰戦争研究会が贈るネットマガジン20号です。
どうぞご覧下さい。

https://boshinken.publishers.fm/

米国気質 IV 村上久三郎

2019/06/06 (Thu) 20:56:36

 19世紀の終わりごろ、私の母校のマイケルソン教授とモーレー教授が「光の速度」を計りました。しかし、当時、誰も見向きしませんでした。しかし、マイケルソンはノーベル物理学賞を受賞されました。米国での最初の物理学賞です。
 不幸にも、二人とも頭がおかしくなり、最後は、幸せではありませんでした。モーレーは自分の車庫で細々と研究をつづけたそうです。モーレーは化学者で、空気中の窒素や酸素の構成を詳細に研究されました。このころ、マークトウエンの「トムソーヤの冒険」が出版されました。
 上記の実験を、ジッと見ていた人がアインシュタインです。彼は、まず、「特殊相対性理論」を展開しました。原爆や原子炉のエネルギーはこの理論から来たものです。その後「一般相対性理論」を展開しました。
「この理論は、自分でなければ、構築できる人は自分以外に生まれないだろいう」と言いました。アインシュタインは解析数学が得意でした。

米国気質 III 村上久三郎

2019/06/06 (Thu) 20:34:40

 オハイオ州の南にケンタッキー州があります。この州には、リンカーンの丸木小屋、フォスターの我が家、「シェーカータウン」があります。
 この町は、確か18世紀に、シェーカーという宗教団体の人たちが作った「町」です。ところが、この宗教は「子供を作らいない」と宗教でした。ということは、いずれ滅ぶわけです。
 彼らが作った町には、郵便局、学校、鍛冶屋など何でもありです。しかし、1930年代(?)に一人となり、ついに無人になりました。
 フォスターは、スワニー川という名曲を作曲されましたが、最後は不幸だったように思います。妻「スザンナ」が駆けつけたときは、他界していたようです。
スワニー川は、村上の農民をも引き付けた名曲です。

 

米国気質  II 村上久三郎

2019/06/05 (Wed) 21:39:36

 米国にはユダヤ人がおりますが、総じて日本に好意があります。ユダヤ人は「ユダヤ人という意識」がとても強いです。
 日本にはユダヤ人に関する本がたくさんありますが、実際にユダヤ人と交流した著者はほとんどいないように思います。
 ウェスト・バージニアにB. R. Cooper 教授がおられましたが故人になられました。ユダヤ系ですね。
 Cooper教授と私は共同研究をし、論文を連名でだいぶ書きました。非常に英作文が上手で、彼が書くと素晴らしくなります。戦後、彼はドイツから米国へ移住しましたが、そのとき、苗字を変えました。
 彼はロックフェラー家と親交がありました。ロックフェラー家の子供が他界し、彼の名前をもらった教授でしたが、こうい風習は日本にはありませんね。
 1990年代に、上記大学あげて、「日米親善」というシンポジウムを開催しましたが、主役はCooper 教授でした。
 米国では、個人を大事にする風習が強く、道路や大学名は、ほとんど、人名に由来します。私の母校はCase Western Reserve University と言いますが、1967年まではCase Institute of Technologyでした。このCase は人名Leonard Case から取ったものです。彼は二本松出身の朝河貫一(?)と同じ大学で、同じくらいの年代と思います。(記憶が定かでありません)。
 


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